(Cover Photo: Arne Müseler / www.arne-mueseler.com, CC BY-SA 3.0 DE, ウィキメディア・コモンズ経由で)
明日・7月23日に、東京2020オリンピック競技大会の開会式が実施されます。その名のとおり、本来は2020年に行われるはずだったものでしたが、1年延期され、ついにその日を迎えます。既に、ソフトボールやサッカーなどの予選は始まっていて、そうした意味では既に今大会は開幕している…ということになります。
昨年からのコロナ禍で予定を大きく狂わされたことに限らず、この東京大会に関しては、何しろ不祥事や不手際の類いがあまりにも多すぎました。しかも、こんなに間際になってまで、さらに問題が増え続けています。
しかし、改めて振り返ってみると、スポーツ大会そのものに対する問題(例えばドーピングなどはそうですね)が深刻だったわけではなく、その周辺のいろいろなモノに問題があった…と言えそうです。例えば国立競技場の建て替えに関するゴタゴタだって、1964年の東京大会のときに作ったモノを、わざわざまるごと新調する必要が本当にあったのか?という疑問があってしかるべきです。一度は決まった公式ロゴが、盗用の疑いで再検討になった件も、オリンピックには既に素晴らしい五輪のシンボルマークがあるわけで、そもそも本当に独自ロゴは必要なのか?となります。開会式だって、どこまで派手にやるのか?という話。もっとも、どんなに質素なものにしても、音楽や演出は必要ではありますが。
これらの「事業」は、オリンピックというイベントを利用して経済効果を得るため…もっと平たく言えばおカネ儲けをするために行われることです。最初は「スポーツの祭典」として開催都市の予算(つまり税金)と寄付で成り立っていたオリンピック大会ですが、それだけで運営していくのはタイヘンだ…ということで、民間企業から資金集めを行うようになっていきました。1984年のロサンゼルス大会は、税金を投入しない「完全民営」の大会で、コレが大幅な黒字となったことから、オリンピックは本格的に商業化に舵を切った…と言われます。
1970年代生まれの私にとって、子供ながらに記憶に残っているオリンピックはこのロサンゼルス大会から後(1980年のモスクワ大会は、日本はボイコットしていることもあり記憶にありません)ですから、それがオリンピックの普通の姿で、そういうモノなのだ…と思っていました。資金が集まることで、より多くのマイナーな競技が実施できたり、貧しい国々からも参加できたり…と、プラスの面はあったはずです。しかし、それに伴って生まれたいろいろな歪みが、コロナ禍という引き金もあったかもしれませんが、ここに来てまとめて噴出したのかも知れません。
こんなに歓迎されずに、多くの開催反対の声も聞こえる中で迎えるオリンピックの開幕は、私の記憶にはありません。それが、おそらく私の人生の中では最初で最後になるであろう、日本で開催される夏季オリンピック大会である…というのは、なんとも言えない巡り合わせです。とはいえ、競技が始まればテレビで中継されますし、それはそれなりの視聴率を得ることでしょう。私も気になる競技は見ると思います。これで、日本人選手が金メダルを獲得し始めれば、案外反対の声もひっくり返ってしまったりするのかも知れません。
基本的にはほとんどが無観客で行われることになりましたから、観るための手段はテレビのみ。海外で行われていたこれまでのオリンピックと、体験という意味ではあまり変わりません。平日の昼間、出勤中に行われる競技が思うように見られないのは不満ではありますが…。
コロナ禍でオリンピックからいろいろなモノが削ぎ落とされたり、変更されたりしていますが、スポーツ大会としての中身そのものは残っています。おカネ儲けの部分が取り除かれたスポーツそのものだけで(「テレビ中継」という時点で純粋ではありませんが)、なおオリンピックの魅力は保たれるのか?…そんなことも考えながら、しばらく過ごしてみようと思います。世界の人々が、オリンピックというものの存在意義について考え直す機会になるのなら、それも悪くないのかも知れません。
オリンピック関係者の中に新型コロナウイルスの感染者は出ていますが、これを完全にゼロにするのは至難の業です。程度の問題はあるにせよ、開催すると決めたのなら仕方ないところでしょう。とにかく、関係者で亡くなる方が出ないように祈ろうと思います。
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