第三章の幕開け

水曜日・14日に、槇原敬之の2年ぶり、通算21枚目のニューアルバムとなる「Believer」が発売されました。今回も、発売されることがわかった段階で予約して、前日の13日には我が家に初回限定版のCD+DVD2枚組が届きました。

2年前の「Lovable People」発売のときには、楽天ブックスに予約していましたが、今回はAmazonを使っています。CDに限らず、我が家では最近はネット通販のほとんどがAmazonに集約されつつあります。妻がAmazonプライム会員で、私も家族会員を登録して送料が基本的に無料だったり、バーゲンへの優先エントリー権がもらえたりするのが大きいですね。

妻は、プライム会員の特典で音楽や動画のストリーミング配信が利用し放題だったり、写真ならいくらでもオンラインストレージに保存できたり…と、さまざまなサービスが受けられるようです。これで1日10円ちょっと(年額3,900円)というのは、相当安く感じますね。


…というのはともかく、槇原敬之の公式Webサイトによると、この「Believer」は「第三章の幕開け」と位置づけられているのだそうです。なぜそうしたのか、詳細を語ったメディアにはまだお目にかかれていませんが、そう銘打つからには、今までの作品とは一線を画する部分が何かあるはずです。そんなことを頭に置きながら、全13曲を聴いてみました。

今回も、アルバムの中には先行してタイアップ企画によりリリースされていた曲がいくつか収録されています。しかし、どうもそれらのタイアップ企画自体に縁がなく、せいぜいライブで1度聴いたきり…という状態。幸か不幸か、ほとんど新曲に近い意識で全曲聴くことが出来ました。


今回は、歌詞の中に現れたあるキーワードが妙に引っかかりました。5曲目の「運命の人」には、「それともこのまま/一人で君を想いながら/年を取っていくのかな」というフレーズがあります。想いを秘めたまま伝えられない女々しさは、往年からの彼の世界そのものなんですが、今回のポイントはそこではなく、「年を取っていくのかな」というところにあります。

年をとること自体は、それこそ「5月でまたひとつ年をとり」の頃からときどき歌詞には出てくるわけですが、今回はかなり受ける印象が異なりました。「花水木」での「5月でまたひとつ年をとり」は、年は取ってもまだ大人になれていない…という意味で使われている気がしますが、ここでの「年を取っていくのかな」の先には、もう大人になった自分がやがて年老いて、そして死んでいく…というところまで含まれているように聞こえます。

その次に収録されている「テレビでも見ようよ」は、ある程度成長した子供たちがいる夫婦の話で、髪が薄くなったり白髪になったり…なんて描写もあります。最終曲の「もしも」には、蝉の死骸を見つけて、人生の価値は長さではなくその中身で決まるのでは?という意味合いのくだりがあります。彼自身の作った曲ではない「A HAPPY NEW YEAR」でも、「こうしてもうひとつ年をとり/あなたを愛したい ずっと ずっと」と歌っています。

いずれも、そこから感じさせられるのは「限りある人生」への思いではないでしょうか。1968年生まれの槇原敬之は現在48歳。ヒトの寿命を考えれば、そろそろ人生の折り返し点は過ぎた…という意識があるのかも知れません。後半戦のスタートとして、残りの半生をどう生きようか考えてみようとしたのが、「第三章の幕開け」という言葉に込められているのかも知れないな…と感じています。


槇原敬之は、「Lovable People」で既に「人生の半分はとっくに過ぎてしまった(「新しいドア」より)」と歌っていたわけですが、あのとき「僕は歌い続けましょう/声と才能が涸れるまで(「言わせて下さい」より)」と歌っていた彼が、今度は「どう枯れていくのか」を考え始めたのかも知れない…と感じた私は、深読みのしすぎなのでしょうか。でも、もしかするとそれは、私も彼のちょっとだけ後ろから人生を追いかけているという実感が、形を変えたものなのかも知れません。

一方で、「Believer」には、前向きな挑戦への応援歌である「超えろ。」や、農業を通して延々と連なっていく生命の営みについて歌った「You are what you eat.」も収録されています。テクノが土台にあるのに暖かさを感じる曲とアレンジは相変わらずです。方向性が変わるのではなく、幅が広がったり、奥行きが増したりしていくのが彼の言う「第三章」なのでしょうね。

コメントを残す